2010年3月27日

日本の名随筆91 「時」 三木卓編

名随筆
読みたい目的の本を買おうと、ネットでも探しているうちに、この本が出てきて、買ってしまいました。時、についての随筆のアンソロジー。アンソロジーとは、いいとこどり。得した気分になります。入門編的な意味合いもあって、力のある文章家に出会えるとうれしいです。

話は変わりますが、「時」、で思い出したことは、この前、テレビで吉本隆明さんの講演を見て(聴いて)いて、きっと読んでしまえばするると読めるだろう評論を、80代の吉本さんはとっても力を込めて一語一語お話されていました。言葉を幾度か重ねて話されると、こちらも行きつ戻りつして苦しくなり、とうとう時間切れて途中で止められて終わってしまいましたが、吉本さんも、「僕も、もういいよ」とか笑っていたので、やはりご本人も大変なことだったろうと思います。冒頭で話されていた、戦争が終わり、そのショックを収めるまで5~6年かかったというお話が、一番印象に残りました。

このアンソロジーにも那珂太郎さんの「終戦の時」というエッセイが載っていて、終戦までの日々と当日の衝撃について記されていました。果てが分からずに続いている戦争が、ある日突然終わった、というのは、まったく異なる時間へ突然乗り入れるようなようなことかもしれない。私は戦争が無い日々にしか生きていませんが、戦争なんてストレスを日々暮らすようなことでしょう。今も世界には戦争をしている国があるわけですが。

他にもいろいろ名随筆が収録されています。佐野洋子さんの随筆は、アートのようでした。また松尾正路さんという仏文学者さん、久々に凝った文章を読んだ気がしました。たとえばこんなことが。

「時間とひとつに融け合って仲よく暮らしたのは子供の時だけである。朝が寝床のわたしを呼んだ。昼は遊びの舞台だった。夜には灯りと眠りがあった。母がいた。時間はなかった。そしてその後、事情はがらり変わってしまった。自分の腹から吐き出した言葉(イデ)と欲望の網にひっかかり、もがけばもがくほど網目の糸が強くからみつくばかりだった。・略・わたしが時間を忘れても、時間はわたしを忘れたことはない。現れたり隠れたり、時間の忍者はつかまえようもなく、自動車道路の逃げ水のように近づくと消えてしまう。そしてまた、私の後ろから鞭をならして追い立てる。わたしの内に入ったかと思うと、いつの間にか私の外に出ている。わたしの存在にぴたりと合った時間の服を身につけたことはまだ一度もない。」

これは、氏が75歳の時に上梓された著書の中に書かれているです。そうか、若輩の私が時間が無いだよ、というのは当たり前なんだ。人は時間を友には、なかなかできないようです。私が仕事を忘れても、仕事は私を忘れてはくれない、んだなぁ、まったく。

また、原民喜はやはり読まねばと思ったり、アンソロジーはお得です。そして、エッセイではなく、「随筆」。

Back to top