2010年9月30日

「リハビリの夜」 熊谷晋一郎

〈「科学性」「専門性」「主体性」といったことばだけでは語りきれない地点から《ケア》の世界を探ります。〉
という医学書院の「シリーズケアをひらく」の一冊です。

著者は1977年生まれの小児科医。
出産時の酸欠で(新生児仮死)脳に受けた損傷から、「イメージに沿った運動を繰り出すことができない状態」、脳性まひとなり、車椅子生活となった。

18歳まで毎日リハビリを行なっていたが、大学進学を機に一人暮らしを始める。

マンションの自室で初めて一人になると「急に時間が止まった」。その日、トイレに「完敗」、リハビリでも味わってきた「退廃的な敗北の快楽」を味わうが、改装業者とやり取りを重ねて、トイレ、シャワールーム、ベッド、玄関と「つながって」いくのだった。

それは、自分の身体の輪郭、「等身大の内部モデル」がくっきりしていくような体験だったという。

いわゆる健常といわれる身体モデルに整えていくような「リハビリ」ではなく、自分自身にとって開かれた身体、身体リズムに近づけていくのが、実用的な必要なリハビリではないか、という体験から紡ぎ出されてきた思考が述べられている。

例えば介助者がうまく見つからずに失禁をしたとしても、「失禁は誰にも起こりうるもの」であり、「なんとかなる」という見通しを周囲の人々と共有することで、「初めて便意との密室的な緊迫感から開放される」。その後、著者は失禁の回数も減っていったという。

規範の共有、そして〈同時に「私たちは、気をつけていても規範を踏み外すことがあるね」という隙間の領域を共有することが、一人ひとりに自由をもたらすと言えるだろう。〉と述べている。

まことにその通り。私の介護者体験からも感ずることが多かった。
幼児、こども、そして高齢者にとっても、介助は不可欠であり、ここで述べられていることはそのまま置き換えられる。

表紙のちょっと怖い濃いイラストは、著者のリハビリの「夜」を象徴しているようだ。編集者さんの意欲も伝わってくる一冊。

身体の動きについて述べられている部分で、前衛舞踏などを連想した…。つまり、体とは永遠にミステリアスなアートではないかなどと、感じたのでした。

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