「 冬の旅 」 辻原 登
「 冬の旅 」 辻原 登
2013年1月刊 集英社
長編小説です。大人、正統派です。
面白い長編だと、寝ないで一気に読まないとならなくなるので困りますが、
昼から読み始めて、その日のうちに読めてよかった。やっぱ、夜の睡眠はとらないと。
こういうパターンは、カズオイシグロの「わたしを離さないで」以来でした。(体力が衰えたものです。)
大きな案件が一段落し、気分を変えたかったので読みましたが、この小説はそれには最適でした。
いきなり、現実に直面してしまったというか、周囲が時間軸がどんどん拡大していき、遠くまで旅してきました。
海外文学とかSF小説は、距離を持って楽しめますが、これは日本の現代小説です。
そうです、「今です。」
というか、登場する人々、こうした人々はいくらでも周りに、いるはず・・・。
しかし、いまのところ知り合いにはいないようです。
でもおそらく昔知っていた人が、電車で隣に立っている人が、現在こんな人生を送っていてもおかしくない。
そういう意味で超リアル、現代的です。
辻原昇さんの小説では「枯れ葉の中の青い炎」が、時々再読しようと思ったりするほど好きですが、
そのテイストと「冬の旅」は、ちょっと外れるのかもしれない。
もちろん、そう、想像してこの小説を手に取ったのですが、
きっと必要なければ読み返さないのではと思います。頭にはいっちゃったからね。
うん、リアルだから。
一方、「青い・・・」は、少し経つと忘れて、また楽しめるのです。私が馴染んでいるのはこっち系。
さて、話しはそれますが、3.11の後、中井久夫さんの「災害がほんとうに襲った時 阪神淡路大震災50日間の記録」(みすず書房)という著書が刊行されました。
こういう事態が、あの大災害時に発生していたのか、と知り、怖い、すごい、そして尊い、などと思ったものです。
この「夜の旅」でも、阪神大震災のことが述べられています。
一人の看護師さんの行動、主人公との出会いもそこに在るのですが、
街のようす、人の様子、あまりの臨場感に圧倒されてしまいのます。
画像よりもリアルで、恐ろしさ、切迫感が、読み手に訴えてきます。
一見、地味に思えるけど、小説っていうのは、やっぱりすごい力があるんだ。
中村文則の悪党?についての小説、「銃」「掏摸」「王国」「迷宮」(新潮社他)等、こちらもかなり怖くてきついのですが、
長編ではなくて中編なので、全ては語り終わらず、三作・・、そしてさらに書き続けておられる。
「冬の旅」は、別に悪党についての小説ではないのですが、
善・悪を通り越してしまい、運命・宿命に至る要素がちりばめられていて、
もう一挙にスピードで、全一巻で描き切った、ように思いました。
(もしかすると、「冬の旅」は、関西の物話であって、-車谷長吉「赤目四十八瀧心中未遂」(文春文庫)を思い出してください。-
関東だとちょっと語り口も異なってくるのではないか、とも思うのです。このことはまた再考してみます。
災害も宗教も事件もテロも国際的に不安だらけ、それがさまざまに交錯し、
人を脅かし陥れ、抹殺しようとしている。でも、こういう時代に生きていることを忘れてはいけない。
そう書くと、この「冬の旅」が、暗くって、哀しくって、世も末だ、神は死んだ的な物語なのかというと、
そうではない。
何かを問いかけているから。
こんな短歌を知りました。
今日とはなにものかなれば 雲の氾濫うつくしき飛行場よ 葛原妙子
(「短歌があるじゃないか-一億人の短歌入門」角川書店 穂村弘・東直子・沢田康彦)
実は辻原さんの「東京大学で海外文学を学ぶ」を通勤時につまみ読みしているうちに、
こちらの本に移ってしまったのでした。
やはり小説は学ぶより読むもの。忙しい身には直接、あたりたいと。
優れた小説は、読んでいるうちに、読者に問いかけてくる。
それがなにかしらを 「学ぶ」ことになる。
冬の旅もあれば、春の旅を思うことも、あるに違いない。
(そういえば、「春にして君を想う」という映画があったな)
中学のときにドストエフスキーを読んだか読まないかで云々と、「東京大学で・・」で書かれていましたが、
中学時代に読んだ、ドストエフスキーはやっぱり面白かった。
こどもながらに面白く読んだので、確かになにかを学んだ、感じたのでしょう。
東大でなくても、中学でも学べるのでした。