本六にいらしてくださった赤瀬川さん 「文のほそ道」番外編
町田市文学館に展示された「HAGU」
昨年2015年、赤瀬川さんが亡くなられました。
昨年の10/17に町田文学館へ「文学と美術の多面体展」尾辻克彦x 赤瀬川原平」を見に行ったとき、体調がよくないとうかがって気が重くなりましたが、展示内容がとても的を射ていて、面白く拝見できたので、浮かない心を晴らしながら、町田の商店街を帰って行ったのです。
その後1か月余り経って、千葉市美術館の「赤瀬川原平の芸術原論展」開催前日の10/26に逝去されました。
初めて赤瀬川さんにお会いしたのは、もう30年以上前、出版社の編集部で女性誌を作っていた時でした。
見開きイラストをお願いして、中央線のどこかの駅(国分寺か)近くの喫茶店で作品を拝受しました。
私はその時ジーンズを着ていたような気が…。なぜか妹も同行。私たちを二人を見て、「いや、みなさん大きいですね」と笑っておっしゃったことを思い出します。二十代です。体力がありそうに見えたのかも。
赤瀬川さんの、「超貧乏」時代だと思います。
少年とオブジェ
尾辻克彦の研究読本
それから少し時間をおいて別の出版社に入ったのですが、
そこで赤瀬川さんの「少年とオブジェ」というエッセイが出ました。「現代詩手帖」連載のエッセイほかを堀切直人さんが編集されました。なかなか売れないまま、紙型ごと角川文庫に移動してしまいましたが、とってもいい本です。
何度も読み返していますが、そのたび新鮮に感じます。佇まいとリズム感は、例えば野田秀樹さんの朗読で聞けたら素敵だろうと思ったり。あとがきの最後「1978年8月 日本にて」と記されていて、ここも私の萌えどころです。
私は「研究読本シリーズ」という文芸系ムックを担当、その2冊目が「尾辻克彦の研究読本 ガリバーの虫眼鏡」でした。
尾辻克彦名で書かれた本を何度も読み込んでいく作業、実に面白かったです。
※なお、追悼特集として「ガリバーの虫眼鏡」からの抜粋記事を別コンテンツでまとめています。
築80年(当時)の店舗をご案内しました。
それから幾星霜、2006年、私は「ヴァリエテ本六」を開くことになりました。想定外、いきなりです。初の企画展は、本六店舗のリニューアル設計者、小山田さんにご紹介を受けた写真家、中里和人さんの「N町」展でした。まさかそこに、長い間お会いしていない、赤瀬川さんがご来廊いただくことになろうとは。それも想定外。
オープンしてほどなくのこと、たまたまその日は地下鉄本郷三丁目の駅からお店に向かうことになり、改札を出て本郷通り、なんと前を懐かしい赤瀬川さんが歩いておられるではありませんか。
すぐに追いかけて、声をかけました。赤瀬川さんは、あの独特の鼻にかかった声で「よくわかりましたねー」とおっしゃった。
その日は毎日新聞に連載されていた「散歩の言い訳」の取材に本郷に来られたそうで、
そのあとさっそく、新聞社の方たちとともに寄ってくださいました。
本六、周辺のことは連載で紹介されて、近所の毎日新聞販売店の方も喜んでおられました。
取材班のみなさん和気藹々で、二階も見学してもらって記念写真も撮りました。
それがご縁で毎日新聞社刊の名作「四角形の歴史」を何冊も売らせていただきました。
取材班とのかかわりでもわかりましたが、
赤瀬川さんの周りにはいろいろなグループが歴代たくさん誕生していますが、
そこには、いつも笑いがあったのだろうと思います。
2006年6月21日(水)夕刊
ということで、もう赤瀬川さんとお会いできないのはとっても寂しいのですが、
赤瀬川さんは100冊もの本を書かれています。
私もこれから先の人生の時間が短くなってきましたが、
これらの中の未読の本を読む楽しみがあります。
赤瀬川さんの本はいつも新しい発見をもたらせてくれます。
人生は発見の連続。
私が好きな赤瀬川さんの言葉は、「重箱の隅は無限大」です。
美術でも文芸でも音楽でも、芸術には常に発見がある。
そして、生活にも発見がある。
できれば、笑いとともに。
「放つ輝き 印象派の水辺」
印象派の画家たちは水辺の風景を好んだ。彼らが何よりも本領を発揮したのは、川や池、海、その水面に映る空や雲や木々などの描写。本来は捉(とら)えがたく移ろいやすい空気や水の揺らぎをカンヴァスにとどめた。その水面の描写こそが印象派の最も革新的な要素だと言ってもいい。この本で赤瀬川さんは、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレーらの水辺の風景画を通して、美術史家や評論家とは違った角度から印象派の魅力を解き明かしてくれる。
赤瀬川さんが注目するのは印象派画家たちの“筆触(タッチ)”― 絵筆の跡だ。印象派以前の時代には、筆触は「あってはならないもの」であり、「絵画の主題に従属するもの」だった。でも印象派画家たちはそんな掟を破り、画面にはっきりと筆触があらわれる絵を描き始めた。描きたいものを自分の技法で描くという自由を手に入れようとしたのだ。彼らの絵から水面の部分だけを切り取って並べたページは圧巻だ。その生き生きとした筆触から、描くことの喜びが伝わってくる。
別冊「太陽」赤瀬川原平の印象派探検」1996 平凡社
赤瀬川さんは彼らの筆触に「自由の嬉しさを感じる」と言う。それに対し、印象派以降の抽象絵画はさらなる自由を得たはずなのに、なぜか自由の嬉しさが感じら れない、とも。「自由というのは与えられると消えてしまう。印象派の絵の筆触には、みずから自由をつかもうとする力が放つ輝きがある」という指摘には頷ける。印象派の人気が不滅なのは、その輝きこそが時代を越えて人々を惹きつけるからではないだろうか。絵筆の感触を知っている赤瀬川さんの言葉には、表現者としての実感がこもっていて説得力がある。これほど印象派の本質をずばりと簡潔に語った本はないと思う。 (みなみ ゆみ 翻訳者)
「印象派の水辺」(講談社刊 1998/新装版2014)
「別冊 太陽」(平凡社 1996刊)
「赤瀬川原平の芸術原論展」千葉市美術館
先日、千葉市美術館では企画展「赤瀬川原平の芸術言論展」に関連して、ワークショップ「多元宇宙の缶詰」が開催された。こちらは赤瀬川氏の作品《宇宙の缶詰》をもとに、自分だけの《宇宙の缶詰》をつくるという試みである。アーティストの奥村雄樹をインストラクターに、哲学者の永井均をゲストに迎えて宇宙を梱包するという不思議な試みに惹かれた私は、早速参加してきた。
この缶詰は、壮大な名前とは裏腹に、そのへんで売っている缶詰のレッテルを内側に張り替えただけのシロモノである。なぜ《宇宙の缶詰》なのかと言えば、外側にレッテルが張られた以上、「この私たちのいる宇宙が全部缶詰の内側になる」[1]から、という理屈なのだ。
内と外は容易に逆転しうるもので、それを隔てるのはレッテルという曖昧なものでしかないという発想は、新鮮であると共に怖い。内側で守られていたつもりが外に放り出されたり、外側で眺めていたはずが逆に観察対象になりうる、ということだからだ。
ちなみに2015年の今、《宇宙の缶詰》をつくろうとすると、紙ラベルの缶詰が少ないという困難に直面する。スーパーや百貨店で缶詰を探しても、缶にラベルが直接印刷されているものがほとんどなのだ。これは現代において、ものごとの内外の境界線が曖昧になりつつあるという警告ではあるまいか。
一方でこの作品は、そんな大層なことを訴えているとも思えない外観である。
が、自分のつくった《宇宙の缶詰》を見つめていたら、ただの缶詰として見るな、と言われている気がした。
つまり赤瀬川氏のように、繰り返される日常の中で、面白いものを発見する視座を持ち続けよ、と。 (中野昭子 ライター)
[1]赤瀬川原平「東京ミキサー計画」(筑摩書房、1994年)p.219
「尾辻克彦の研究読本 ガリバーの虫眼鏡」収録インタビュー「お答えします」より
現代人が現代を見るということは、結局、自分で自分を観るということなんですね。
他人を観るのはやさしいんですけど、自分で自分を見るというのは凄く難しい。p206
千葉市美術館 「赤瀬川原平の芸術原論展」 最終日の夜
古代を観察することっていうのは、当然ながら現代人にとっては冷静になれる、
というより冷静になるほかはないわけですよね。
もうすんでしまった過去のことというか、しかも、他人というか。
でそうではなくて現代人を観るっていうことは、まさにこれはもう、
私小説をいかにキチンと書いていくかということになるわけです。P207
それから宇宙論なんていうのも、この宇宙の中に住みついていながら、
なお外側から観たこの宇宙の実体を捉まえなければならないですよね。
これなんかまさに私小説の原点て言えると思いますね。
その場合、自分がちゃんとした材料になっていないとダメなんでしょうね。心情の吐露ではどうしようもない。
人間関係と宇宙の、天体の関係は非常に似てるんですよね。くっついたり、離れたり、とか(笑)P208
……結局、自分は、自分というのが一番不思議だなあ、と思うんですね。
子どもの頃に、なんで自分がここに居るのかなって。p209
人間ていうのは、もたれ合いながら立っている一方の存在だという風に、思いますね。ケンカしてナンダカンダあるけど、裁判ということでいうと、相手があるから、二重性の片一方という、(笑)そういう感じですね。p211
男女の魅力って、互いの要素を少しずつ持ってることなんじゃないですかね。p210
「尾辻克彦の研究読本 ガリバーの虫眼鏡」1989年北宋社刊 インタビュー聞き手:髙橋丁未子)