気づけば終電間際の時刻だった。俺は方向も ろくに確かめず、あわてて電車へ滑り込んだ。
乗客は一人だけだ。相手をちらりと見て、俺は動揺した。
白いトレンチコート、黒いハイヒール、灰色のレンズが嵌ったサングラス。
俺が創作している小説のヒロインと同じ容貌。
電車は突然停止した。次の瞬間明かりが落ちて、何も見えなくなった。
暗闇の中、かすかな衣擦れと共に、人が近づいてくる気配を感じる。
「あんた、何者だ?」
「知っているはずよ」
淡々とした口調と低い声は、俺の描写と一致している。
俺は不吉な予感にぞっとした。この女は、相手に顔が見えない状態で任務を遂行する。まさに今の状況だ。
「消えてもらうわね」
「……なぜ俺が殺されなきゃならない?」
「忘れたの? 私はクライアントの事情には立ち入らない主義」
そうだった。こいつは依頼主にあれこれ聞かず、ただ注文通りに仕事をする。情に溺れないために。
「遺言はあるかしら」
これも設定通りで、この女は相手の今際の言葉はきちんと聞くのだ。
「クライアントに伝えてくれ。近い将来、俺の出番を用意してくれと」
「一応伝えておくけれど、無駄でしょうね」
頭に押しつけられた硬い感触は銃口だろう。
トリガーが引かれる僅かな振動を感じると同時に、猛烈な熱さが身を貫く。
薄れていく意識の中で俺は、俺がつくった世界に不要とされた自分に同情した。
(中野昭子 ライター)
見知らぬ人から手紙が届いた。
差出人の名は私の名と、漢字が一字同じだった。
追憶の中で父が呟く。我々は捨てられたのだと。
その苦い表情から逃れるために、私は意識を仕事に戻した。
時計職人だった父から受け継いだ店は、いつも静寂で満たされている。私は自分の店を、変わらぬ仕事を、繰り返される日常を愛していた。急速な変化や気持ちの乱れは、ただ耐えがたいものでしかない。
時を失った時計に再び正しい時間を与える。それは私にとって喜びだった。止まっていた時計は、私の手の中で動き始める。私は針の動きを確認し、本体を耳元に近づけた。規則正しい音は、静かに鼓膜へと浸透していく。いつしか私は秒針の音楽に包み込まれていた。
時を刻むリズムは、意識の底に沈む記憶を揺り動かす。時計の鼓動は胎内の心音となり、私はその心地よい波に身を委ねていた。時は更に遡り、人肌のぬくもりから灰色の虚無へと突入していく。私はその流れを全身で拒否し、抜け出そうともがいた。
気づけば私は一人店にいた。手元の時計は何事もなかったように動いている。落とした視線の先に封筒があった。私は差出人である母に会ってみようと思った。そもそも私をこの世へ導いたのは彼女なのだから。
日没後の薄闇の中、封筒の白さが目に付いた。その無彩の景色は、これから母と私が共有する、いまだ色の塗られていない時間を示すのだろう。 (ライター 中野昭子)
扉が震えた気配を感じて、私は戸を開けた。
目の前には影法師。
気がつけば私は、布と紙を手にしていた。
図案通りに刺繍を施すこと、それが訪問者の依頼だった。
刺繍の技術を受け継ぐ家の生まれだった母は名手で、さまざまな模様を鮮やかな手つきで刺し上げていたものだ。母亡き後は私が引き継いだが、こんな奇妙な仕事は始めてである。
作品は期日通りに仕上がった。渾身の出来となった布を見ていると、戸を叩く音がする。成果物を渡すと依頼主は頷き、布を裏返して私に示した。
反転された柄に見覚えがある。遠い昔、古びた本の中で見た形象。意味に気づいた瞬間、縫い込まれたかたちが私を圧倒する。
その時私は、母が時折口ずさんでいた歌を思い出した。
死の文様には気をつけろ
底知れぬ黄泉の国からは
不吉な使いがやってくる
奴らが来たなら背を見せよ
私は背中を向けた。すると吹き荒れる風と共に使者が消えた。
振り返れば、白い布がはらりと落ちているばかり。
背に何かぬくもりを感じる。私は糸をほどき、体感する形を再現してみた。象られた図柄は、私を温かい記憶で満たした。
私の家では代々、産着の背に魔除けの縫取りである背守りを施す。護符は布を通して私の体に浸透し、魔を払ったのだ。
私は刺繍を続ける。母と同じように、誰かを守るために。 (なかのあきこ ライター)