無くても良い。だがあった方が良い。  hotcake103

2014年6月14日

 

雑貨主義006

 

 

 

前回のホットケーキ102に続くのですが、

では、真ん中の「本六」も閉じるのかという問題も浮上です。

本六も女性一人でやっているのですからね。

 

でも、お隣さんたちがおひとりで開いておられた40余年間に比べれば、高々8年間。

いつも閉まっているんじゃない?という方もおられますが、

店舗はお隣の約二倍あり、扱っているものが多種にわたり、

かつ企画展とイベント開催と範囲が広いので一人では限界があり、

それに見合って休ませていただいているのです。健康第一。

フランスなんか、疲れたら閉めちゃう店もあるらしいけれど、それに倣うしか今のところありません。

 

いえるのは、全然シンプルな店じゃないってことでしょうか。

(だから継続できるといっているわけではないです。)

本六の扱い商品ですが、曲がりなりにも古本、現代アーティストの作品、

かれらが手がけるオリジナル雑貨などです。

「お茶」と「お煎餅」と比較できるのは、この中では「雑貨」類でしょう。

ウチの雑貨はアーティストさん手作りのオリジナルグッズです。

紙ものから立体、陶芸、アクセサリー、おもちゃと、素材、仕様はさまざまですが、

「雑貨」とひとくくりしてしまいましょう。注文して作っていただくものもあります。

コンビニでは売っていない、ここでしか手に入らないものがほとんど。

デパートで販売しているアーティストさんもいますがダブらない。

 

閉店を逃れるためにも、本六の雑貨はどんな存在感を示していくのか。

周りが閉店してさびしいと思うより、発展、進化していくにはどうすればいいのだろうか?

春の企画展を終えてのお休み中、他のさまざまなことと格闘しつつ、

私はそんな悩ましい問題に頭を抱えていたのでした。

 

 

6月1日、旧知のアーティスト谷川晃一さんの展覧会「これっていいね 雑貨主義展」を、

三島市の「大岡信ことば館」まで観に行ってきました。(相変わらずぎりぎり最終日です。)

 

布、金属、陶器、ジョウロ、籠、花札、カタログ、おもちゃ、マッチのラベルのような小さなものから

壁に下げられた大きな織物までたくさんのコレクションが

所狭しと、そしてセンス良く展示されていました。

まさに雑貨のカーニバルです。

日本の「かわいい」が、世界に向けて発信されていますが、

70代の谷川さんが選んだものは、のんびり、まったりしています。

陽光礼讃、暮らしを生き生きさせてくれそうなものばかり。

アーリーアメリカン的、アジア、メキシコ的・・・

あたたかく、幅広く、深みが備わっているものばかりでした。

 

詳しくは谷川晃一さんの著書、平凡社コロナブックス「これっていいね 雑貨主義」をご覧ください。

コレクション画像のみならず、

日本で「雑貨」が誕生してきた歴史を知ることができる文章も収録されています。

 

 

展覧会主催が「ことば館」だけあって、展示パネルの文章も素敵でいいのでした。

中でも、

「・・雑貨とは、見出されるもの 発見されるものである。・・」。

という一言に、はっとしました。まさしく「発見」。

 

「発見される」って、なんか本六みたい。

あれれ、こんな店あったっけ、と、見つけられる店!?

 

「雑貨主義展」の宣伝チラシには、「雑貨」の定義として、以下のことばもありました。

たとえば、

・もの好きである。だが、物質主義ではない。

・無用か実用を問わない。

・直裁的である。

・ささやかなカーニバル空間である。

・心地よい暮らしの証明である。

・“主”にはならない。”それ以外のもの” ”その他のもの”である。

その他「先端の思想」「聖民俗学」・・いろいろ。

 

中でも、私には、

「無くても良い。だがあった方が良い。」

この言葉は、腑に落ちました。

 

販売するための雑貨を探したことはなく、

どこからともなく集まってきた雑貨たち。

本六へ辿り着き、また他へとわたっていく雑貨たち。

 

遭遇したときに瞳がキラリ、心がふわりとする雑貨=お店。

そんな雑貨=お店に、とっても会いたいのは、

実は私自身なのでした。

 

 

 

しかし、

地元・本郷が、それらを必要としているのか、どうか。

そこが問題なのであった。

 

 

 

 

 

 

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