世界は終わる? 終わらない。      [ホットケーキ86]

2013年6月13日

 

 

世界が006

 

 

 

 

ケイト・アトキンソンの短編集「世界が終わるわけではなく」(東京創元社刊)は、

目まぐるしく変わる日々を生きる人たちの物語だ。 テーマは変貌。

 

邦題(原題は「Not the End of World」)は、訳者の青木純子さんが述べているように、

「そもそも我々が現実とみなしといるこの世界だけが、唯一無二の現実なのだろうか?」という疑問と、

ここの世界が終わり消失してもさらに別の世界への扉は開かれているかも?

という二重の意味を含ませているそうだ。 

 


冒頭の「シャーリーンとトゥルーディのお買いもの」と最後の作品「プレジャーランド」は呼応しているし、

ある作品に登場した人物が別の作品に出てきたり、全体的にぐるぐるっと回り続ける回転木馬に乗っているような勢いに満ちている。

 

だから、窓の外の雨音をBGMに、静かな室内でゆっくり読もうとしても、

テレビのバラエティショーに入ってしまったようで、読んでいて疲れてしまうのだ。

私にとってのその要因のひとつは、情報の多さにあるのだろう。

 

それぞれの作品に古典文学などから引かれた意味ありげな文章を掲げているのも、

なんかうっとうしく、もっとシンプルにはいかないものか、と言いたくなる。

 

 文中、他人には知りえない内面の言葉が太文字で記されていたり、

世界に名だたるブランド名がたくさん唱えられたり…。再生=リプレイを繰り返す作品が多いし。(全体に通じるテーマが「変貌」だから当然であるが。)

 

読んでいるうちに、なんとなく居心地が悪くなったりするのだ。

 

でもそれは、この「世界が終わるわけではなく」が、まぎれもなく〈現在の物語〉だから。私たち周辺の、拡大描写。現実でもあるのだ-!! 現代文学なのですね。

 

 

最近、文庫新版化されたのでいつも持ち歩いている「エンデのメモ箱」(岩波現代文庫)は、端的な「メモ」集で、こちらの居心地はきわめてすっきりだ。

 

とはいえこちらも、「終わるわけではない」、ということがたくさん書かれている。

 

ちょっと端折り過ぎですが、(いつか、書き留めておきたいですが)

エンデは、「悪が栄えたためしなし」という意味のことを、「メモ箱」にたくさん投げ入れている。それは訳者の田村都志夫さんもあとがきで触れられているのだが。

 

 

そしたら、先日、新聞の面白い[人生相談](読売6/12朝)を読んだ。

 

質問者20代女性は、死を意識する大病を経験、「死んだら、これまで自分がやってきたことも全部なくなるんだな」と思ったのがきっかけで、以来、「何をしても意味がない」と思ってしまっている。

その一方で「何にでも一生懸命な人を尊敬」し、同じ病気で命を落とす人もいて何かしないといけないとは思っており、「たとえ今の時点だけでもよいことをすることには意味がある」という答えを期待している、と。

 

回答者はあの野村総一郎先生でした。先生の答えは、

 

・・・では質問者の希望する答えの反対、「良いことをしても意味がない」というのを仮に正解だとすると、悪いことをしても良いことをしても同じ、無意味。だとすれば道徳・倫理・宗教・法律も無意味になるが、まだ世界は崩壊していない。つまり「良いこと」をするのは人類にとって「自明のこと」とされているのではないか・・。

 

野村先生は、「今の時点で良いことをするのに意味がある」という質問者の希望する答えに賛成し、「いや、それしかない。それをもとに生きる力を再構築するべきです。」

と結ばれていた。

 

良いことが何なのかは、その人の考えしだいだろうが、でも、そのような信じるものをすることが、次の「世界」を見せてくれるだろう。

だから、「世界が終わるわけではなく」変容し、続いていく。

そしてその行程は、科学のように素早くもなく、明解では決してないのだろう。

 

ミヒャエル・エンデは悪を「虚無」とも表していた。「はてしない物語」を初めて読んだとき、虚無が近づいてくるのが、心底怖かったな。

 

 

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