なるべくゆっくり歩くようにしています。
そうすると一日も長くなるような気がするのです。年の終わりは毎日の通勤時の交通機関に必ず事故が起こるのだけれど、きっと誰もが急いでいるからでしょう。ゆっくりしてられないものね。
朝、ごたついて出るのが遅くなり、電車がすいていました。
だからお昼頃。前の座席をなんとな~く眺めたのは、右端の中高年の男性が携帯で話し始めたから。通話はすぐ止めたのですが、その人の左側にずらっと座っている人たちまでなんとなく目に入ってきました。私の前に立っている人がいなかったからね。見ると、その4人のうちの3人みんなが携帯に集中してました。(ちなみに一番端の女性は眠っていました。)
その人たちの後ろの窓には、電車が走っているわけですから、どんどんどんどん風景が流れて行ってて、みんな携帯を見つめていてて、ちょっとドラマの1シーンみたいな感じを受けました。ミステリードラマなら、話が進むに従って、この4人が、意外にも!なんらかの繋がりがあることがうすらうすら分かってきたりするんですね。
さて、その日の夜、帰りの電車で、ああ、あの人たちはどんな風だったっけな、と試しに頭に描いてみたら、これが思い出しちゃったんですね。はっきりと容姿が浮かんだのには驚きました。覚えているなんてね。びっくりです。
通りすがりの複数の人たちをこんなにはっきり記憶していたなんて。眺めているうちに“ドラマ”へと飛躍し、印象を強くしたのでしょうか。記憶の幅というか、構造はミステリアス。お昼に何食べたか、忘れちゃったりするのに。
この人たちはみんな主役を張ってるんだ、とぼやっと考えていたからかな。これも、「ゆっくり歩く」とおんなじように、なんつーか、意識してほややや~ん、としている状態なんだけど、かえって仔細を覚えちゃうなんて、あたしってかなり記憶力を無駄なことに使っています。
電車ん中なんて、今日の収支とか、新年の計画とか、バーゲンや展覧会の予定とか考えたりして、チェックしたり、それこそメールしていればいいのに。でも、そうすると、どんどんどんどん忙しくなっていってしまい・・・・。
しかし、この4人の方たちの記憶も、私の中で確実に、日に日に薄れていくのですよね。カンケーない人たちだからそのうち忘れ去ってしまうのでしょう。
道尾秀介のエッセイに、昔コロンボを演じたピーター・フォークのファンだったのだが、今、彼が末期的なアルツハイマーになっていると知って、やはり切なくなってきて、彼のことを思い出す時は・・云々、というようなことが書いてありました。
記憶というのはきっとすべての動物が持っているというか、あるのでしょう。人からその人の記憶が失われたときが2回目の死なのだと、確か萩尾望都の「トーマの心臓」にあったように記憶しています。大昔に読んだ漫画ですが、この言葉、覚えてますね。
つまりともかく、大切なことはきっとずっと忘れられないようになっているのだろうかなぁ ?
みなさんご存じの、東大の銀杏です。