ゆきさんは、カイユボットの展覧会を観にパリに旅立った。
と書くとなんか堀江敏幸さんの小説みたいです。「ゆきさん」と、名前を出してあるからでしょう。では、Yさん(仮名)としてみます。
七夕に帰国までの十日間、介護で毎日忙しくしているYさんが、やっととれた自由な時間です。
介護というのはなかなかお休みがとれませんし、ありません。
年老いた親たちの生活の手助けというのは、実際、手抜きをするのがとても難しいです。ヘルパーさんの手を借りたとしても、その時間のみ、一息つくだけです。
体の衰え、病い、そして認知症を帯びてくると会話もままなりません。
体がうまく動かず機嫌が悪くなり、我が強くなってきたりするので手を焼くばかり。
おそらく、自分もそうなるのでしょうが。
時々思うのですが、人間は自分以外の誰かを(自分の意思にかかわらず)命がけで守らなければならない時間を、平等に持っているのではないでしょうか。
守るべきは、親だったり子どもだったり、夫や妻、恋人や友達だったり、動物だったりします。時には植物や鉱物だったり、機械だったりするかもしれません。
研究だったりすることもあるでしょう。芸術? それもあるかもしれません。ただしそうしたものは自分自身と強力に結びついているので、[自分以外のもの]とはちょっと違うのではないかな。そんなこと言っていたら、どんどん広がって、人民とか宇宙とか思想とかまでのびていってしまうのです。
とにかく、ここで言いたかった「命がけで守る」というのは、自身は度外視し消して、自らの心も体もそえて奉仕する、みたいなことです。
そして、介護は、まじめに取り組めばそれくらい大変なことです。
コンチクショウとか思っているのでは、続かないのです。
私も私なりに二十年くらいは親の介護をしていたので、Yさんの苦労はよく理解できます。
地元で独身だったりすると、介護の責任は主役級になって、どっと両肩に重くのしかかってきます。結婚していても同じ。所在の距離の近さは介護の近さでもあります。同居だったら、延々と介護生活は続いていきます。果てしなく。
さて、その大変さをどのように切り抜けていけばよいのか云々等々は、荻野アンナ先生の著作をお読みいただきたいです。久田恵さんのエッセイも必読ですね。(人生相談の解答も)。
さて再びYさんに戻りますが、彼女は現在パリの空の下、{印象派萌え}で、積年の疲れをいやしていることでしょう。友達の私まで嬉しくなります。
フランスに行くには、ふつうは飛行機です。飛行機という乗り物は、当たり前ですが空を移動します。いつもふたりで話すことなのですが、飛行機が離陸すると同時とに「みんな、バイバイ~♪」という開放感に包まれます。
さらに私は、目的地に着くまでの地上の眺めをみるのが大好きなのですが、Yさんの場合は、「バイバイ!!!」というのがいいのですね。まして目的地は、彼女には旧知のパリであるし。
空の上は人外地。だから、いいんです。ゆっくりできる。
そういえば、よくはわからないのですが、介護を頑張っていると介護されている側の人も、諦めないで頑張ってくれるように思われます。そうした結びつきに、なにか別の要素が入ってくると、微妙に頑張りがずれていってしまうことがあります。空気が薄くなっていって、別れが近づいてくるのかもしれません。
「それなりの“命がけ”」というのは、やはり存在しないんですね。
それから、介護の時間中、「私はなんのために?」的な疑問、ひどく絶望的な気持ちに襲われてしまうことがままあります。
しかし、いつか終わりが来て、そんな時間が無駄なものではなくて、実は非常に大切な時間だったことを知るのです。がまん強い自分になるのも、そこで学ぶことかもしれない。仕事をやる時間以上の、価値があることにも。
無駄な時間というものは、どこにも存在しないのだと思います。
とにかく、やるときはやる。休む時は休む。それが一番なのだと思います。
七夕に帰国する柔らかなYさんの笑顔をまた確かめて、ジャック・マール美術館やマネ展の話もたくさん聞きたいものです。