読んでいた「魚は海の中で眠れるが 鳥は空の中では眠れない」(著*保坂和志)で、出会った文章。
「プロになる道はすべての人に向かって開かれている。しかしプロとしてやっていくために必要なことをプロ以外の人全員にわかるような言葉で説明することはできない。プロ同士が一番自分たちが考えている中心的課題についてしゃべったら、周囲はよくわからない。高度で難しい言葉だからわからないのではなく、たいてい変な言葉だからわからない。 科学ではないからプロといっても専門の言葉は持たず、ありあわせの言葉を比喩的に使ったり、身体感覚や経験に合わせて意味をズラして使うことになる。-略-」
「そう、プロがプロとして本当に必要な話をするとき、外の人は自分の通念を捨てて中に入るしかない。外の人にわかるようにしゃべったら、それだけですでに嘘がはじまる。」
これは、この前、tricolorさんたちが、演奏会のリハ―サル後のおしゃべりが、
そばにいたときに聞こえてきたときに、感じたことです。
彼らが話していたこと、少しは私にもわかることではありましたが、私は音楽のプロではないので、
ああ、これはもしかしたらこういうことではないかな? と、ひそかに胸の内で想像するしかありません。
言葉が誰にでも通じると思ったら大間違いである。
私は何かのプロか、と問われたらちょっと困りますが、例えば<古本>のことだったら、
ある年代のある種の本には少ーしは詳しい、しがない古本屋です。
が、この場合の「詳しい」というのが、「値段」のことでないのが残念です・・・。
<そのあたり>の本を、すべて読んでいるいう評論家的立場ではもちろんなく、
本の流れみたいなことを知っているに過ぎず、
香りというか、まあ本にまとわっている<雰囲気>みたいなものに馴染んでいたということにすぎないのですが。
でも、その方面に詳しい方から本を譲られるときなどは、
その方と私としか通じない言葉で話しているに違いないのです。
たとえば、
「あ、これね。そうそう、この本の作家だ」。「で、これもその人に近くて」「あ、これ、面白いよね。」
「この人には珍しくね」「うん、でこれはあの棚においてみようかな。」「ちょうどいいかも」
「賑やかしっていうか」「売れなくても、あってほしい本」「そこいくとこっちは」「そうね、ここはこれのが」
などという会話。そのあたりについて興味ない人にとってはなんだかわからない。
暗黙の了解があり、本の好みは異なっても、それを認めているような。
やっぱ、本が好きな二人です。
この前、ひさしぶりに会った人と立ち話を始めたとたんに、自分が<減らない口>を叩いているので驚きました。
「ことばが悪いねェ」と、相手は苦笑いして言うのですが、
そんなことは構うことはなく、いくらでも軽口が出てくる、出てくる。
相手は笑っているだけでしたが、こちらは止まらない。
わあ、私、ノッている、うう、こーいう、くだらないことをうんと話したかったんだ。と思ったものです。
くっだらないけど、それを<愉快>と受けてくれる人がいい。
でも、こんな風に自分の好きなことを全開で話せる相手は、
そんなに多くはいないのではないでしょうか。
(だから時々、モーニンとイブニンになって、会話してみたりします。)
だいたいは話す相手に合わせて、わかる言葉でしか話しませんし、話せません。
年月が経って、慣れていったとしても。
私なども、相手に合わせているのが、ほぼ95パーセントと言ってもいいかもしれません。
プロの会話、言葉というところから少し話がずれていってしまったのですが、
「必要な話はそんなにはできない」、ということを、覚えていてもいいかと思います。
誰にでもわからなくてもいいから、でも必要な言葉は持っていたい。
それは、寂しいことじゃない。
そして、時にはそのことを話せる相手と話すのが、(言葉にとっても)発展的だと思いました。
もうちょっと言えば、アーティストさんの作品、本、など、<プロ>の作品 を、
プロじゃない人に向かって伝える言葉を、きちんと書けたら、と願っているのです。
それを私のもっとも大切な<プロ>にしたい。
右は、十日前に満開だったつつじ。
もう、ほとんど花が落ちてしまいました。
明日の風雨で、全てなくなってしまうかもしれません。