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いつもなら夏休みをとったら、すぐにでも旅に出ているのだが、足の裏の痛みが気になり、行きそびれてしまった。どんどん気分が沈んでいく一方でした。
そんなお彼岸の入りに、不思議な旅を描いた小説、湯本香樹実さんの「岸辺の旅」を読みました。
失踪した夫が三年ぶりに妻の前に現れる。妻の手作りの「しらたま」を以前と変わらず、美味しそうに食べる夫は、すでに亡くなっているらしい。そんな二人が、あてどない旅に出発する。その一部始終が、簾の向こうに見える淡い風景のようにつづられていく小説です。登場人物の夫婦と共に旅をしていた気分になりました。
「岸辺」という境界しか歩けない二人の、遠い遠い旅路。一生に一度の旅なのでした。お彼岸に読むには、絶好の本でした 。
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一年に一回くらい、会って話す専業主婦の知り合いが言っていました。
「私は家にいるのが好きなのよ」。
そんな彼女、さすがに内も外も整えられている暮らしぶりです。
テレビの旅番組で「なぜ旅に出るのか」、という話題になり、ある作家(夢枕獏さん)が「幸せじゃないから旅に出る」みたいなことをおっしゃっていた。
幸せなら旅に出ないというのです。同じようなことですが、「ここは自分のいる場ではないと思うから旅に出る」、ということを他の女性作家さんも書いていた。
とすると、専業主婦の友人は幸せなのだろう。たしかにそう見えてくる。
旅は気分を少しは変えてくれるし、発見もある。私は若い時は、旅を終えて故郷の東京に帰還したときが一番嬉しく、まるでそれを確かめに出かけているような。自分のいる場所は、まんざらでもないことを改めて知るための旅でした。
しかし40代からは異なってきました。介護に暮れる日々からの脱出、仕事からの息抜きの旅も含まれてきました。そうした「目的」や「効能」のある旅は別にしても、わざわざ出かける、出かけざるを得ないという旅は、此処にいるのがあんまり幸せじゃないからと、いう風に、私も実際、思います。
旅に病んで夢は枯野をかけ廻る
という有名な芭蕉の歌があります。
この「ゆめ」とは、過去の幸せなのか、これからの希望なのか、果たせなかったことなのか、病んだ心が見せる幻影なのか。たとえ、そこが枯野であってもかけ廻る夢は枯れないのだ、と今は理解していてみたい。
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さて、「岸辺の旅」は、枯野の旅ではなく、命の旅のようでした。
二人がさいごに食べたのも、しらたま。実においしそうに食すのでした。
吉本ばななの「キッチン」も思い出します。こちらの人たちが食べたのはカツ丼でした。
カツ丼としらたまの違いが、背後の風景を違えるのだけれど、食べ物をともに食べるということは太古の昔から大切なことなのだったのでしょう。
私も自分のためではありますが、キッチンの窓から木のはっぱがゆれるのを見ながら、食事を作っているときが、一番幸せを感じる時です。
食事の支度を自分のペースでできることほど、幸せなことはないと思います。なるべく簡単に、でも丁寧に。これって、なかなかできないことですね。そういうゆとりってなかなか作れないです。
父が晩年、先が長くないから、まずいものを食べると損したように思えると言っていました。確かにそうかもしれません。山田風太郎ではありませんが、ご飯を食べることに感心を持っていることは、命に関心があることでもあります。生命力です。
食べたいものを食べたくなったら、ささっと作ってスタミナつけて、さて、夏の終わりに旅に出ることにしましょう。